ShigeRokuBlog

アニメ・マンガ・映画――ポップカルチャー全般を語る日記。

『インサイド・ヘッド』を観た

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『インサイド・ヘッド』を2D吹き替え版で観てきた。ホントは字幕版で見たかったけど、最寄りの映画館では吹き替え版のみだったのでやむを得ず。コミカルなシーンはやはり字幕版のほうが感じが出ていると思ったが、そんなことは些細なもので、映画自体は大変素晴らしかった。ピクサー映画のなかでは間違いなくマイ・ベスト。

本作は仕事で多少縁があったこともあり、もともと思い入れがあった。「“感情”を主人公にした映画」というコンセプトも、昨今オリジナルや続編ばかりの映画界のなかではかなり挑戦的な試みだ。そんなところに好感があり、応援したくなる作品だった。

本編がはじまる前にピート監督が「これはあなたの物語です」と言っていたが、まさにそのとおりの映画だった。とくに「引っ越しで精神をやられてしまう」というライリーの境遇が過去の自分の経験と重なり、「わかる、わかる」という感じで、かなり感情移入できた。

本作は“感情”を描くドラマということで、「ヒトはどのようにして物事を感じるのか?」とか「性格や価値観はどのようにして形成されていくか?」というメカニズムが丁寧に描かれていて「なるほどな~」と見ていて面白かった。映像では、性格やその人特有の行動様式みたいなものは“島”として表現されていて、複数の“島”によって人格が形成されているように描かれた。思わず「自分の頭はどんなふうになってるんだろう?」と想像してしまった。

感情のメイキング的な部分もさることながら、物語面も素晴らしく、目頭が熱くなってしまうシーンが多々あった。とくに過去の家族との思い出を振り返るシーンは、『オトナ帝国』のひろしの回想シーンばりに泣ける。ビンボンが思い出となって消えるシーンもよかった。

本作は子どもよりも、大人や子持ちの親のほうが刺さると思う。実際、劇場でも子どもよりも大人のほうがウルウルしてたし。そもそもピート監督が本作をつくったきっかけは、思春期を迎え急に性格が変わってしまった娘をみて「どうしたんだ?」とショックを受けたことにある。そういう着想なので、映画を見ててもどことなく“親目線”を感じる。


誰もが一度はこう思ったことがあるだろう。「悲しい気持ちなんてなくなればいいのに」「楽しいことや嬉しいことだけでいいのに……」と。本作では「ヨロコビ」や「ムカムカ」など5つの感情が登場し、最初にそれぞれの役割りが語れるが、「カナシミ」の存在理由だけは最後まで明かされない。

途中で、それっぽいことも何となく暗示されてはいる。母の頭のなかでは「カナシミ」主導権を握っていたり、「カナシミ」がビンボンを慰めるシーンなどがそうだ。
終盤、家出のあとで帰ってきたライリーは「カナシミ」の心を爆発させ、両親にひた隠しにしてきたが本当はツラかったことを告白する。娘の本心に気がついた父と母。ライリーは両親に熱く抱かれ、その瞬間、「ヨロコビ」と「カナシミ」が入り交ざった思い出ボールが誕生する……。

「カナシミ」の役割りは、自分自身よりもむしろ他者に対して向けられるものだと解釈した。すなわち「思いやり」である。ライリーの母の感情で「カナシミ」が主導権を握っていたことからもそれは明白だ。この感情がないと、他人の悲しみ、辛さを想像できなく、共感することもあり得ない。

僕はネカティブで悲しみがちな人間だが、そんな自分も悪く無いかもと、ポジティブになれる映画だった。